メディアはどの世界へも開かれているからこそ

2020年1月11日

後期の授業で、生命にまつわることをテーマにした講義に参加している。

ごく直近の講義では、「テクノロジーは人を幸せにするか?」というテーマが扱われ、

その中の「メディアとバーチャルの越境」という小題の中で、深く掘り下げるべき観点があったので、

今回はここで少しばかりシェアをしようと思う。

一応確認しておくが、「メディア」の定義は、語源のmediumからきているとおり、「媒体」の意味がある。

情報とそれを受け取る人を媒体するのがメディア。メディアの歴史は1940年以降グーテンベルグの印刷技術が誕生してから大衆に広まり、紙媒体から通信媒体に変化し、今では私たちの手のひらの中に納まるサイズでメディアが存在している。初めは紙面一枚の情報の世界が、今ではギガバイトの中で通信できるだけのほとんど無限といっても過言ではない情報の世界にまで広がっている。

大量の情報に触れ、抽出し、それを自分の内にとりこむ。

この隔たった情報と私たちをつなぐメディアを、ヴィレム・フルッサーというデジタル文化の中で起きる思考の変化について研究をした(引用元:https://monoskop.org/Vil%C3%A9m_Flusser) 学者はこう表現したらしい。
「人間の起源には、人間と世界の間の深淵がある。メディアとは、この深い断絶を架橋する道具であり、和解なのだ。」
メディアは私たちと私たちの知らない世界への架け橋なのだ。

もう一人講義で触れられた、マーシャルマクルーハンというメディア研究の著名な学者は、彼を有名にした著作"Understanding media” で、メディアは身体の知覚の延長である、と述べた。以下のサイトに非常に端的に彼の著作の影響がまとめられているので、参考にしてほしい。

Understanding Media, first published in 1964, focuses on the media effects that permeate society and culture, but McLuhan’s starting point is always the individual, because he defines media as technological extensions of the body. As a result, McLuhan often puts his inquiry and his conclusions in terms of the ratio between the physical senses (the extent to which we depend on them relative to each other) and the consequences of modifications to that ratio. This invariably entails a psychological dimension. Thus, the invention of the alphabet and the resulting intensification of the visual sense in the communication process gave sight priority over hearing, but the effect was so powerful that it went beyond communication through language to reshape literate society’s conception and use of space.

https://marshallmcluhan.com/biography/

以下訳

1964年に出版された「メディア論」は社会と文化に浸透しうるメディアの影響をテーマとしていたわけだが、マクルーハンは常に個に注目することを重視した。彼はメディアが身体の技術的な延長だと定義していたからである。そのため、マクルーハンはよく身体的な感覚とメディアがもたらした変化の帰結の比率を結論とした。このことは明らかに心理学的な側面も含んでおり、アルファベットが発明 されて以降、コミュニケーションにおいて、 視覚が強調されることになり、聴覚よりも優先された。この視覚があまりにも強調されたため、言語を通じたコミュニケーションの領域を超え、社会の概念と空間の使われ方を再創造するまでに至った。

マクルーハンが述べるように、メディアが身体の知覚の延長ととらえると、私たちそれぞれの個体がそれぞれ対するメディアに向いていることになる。それは一枚の紙でもいいし、テレビでもいいし、スマートフォンでもいい。
そこには私たちとメディア、の空間が作られる。情報がこちら側に来て、私たちがそれを迎えに行き、受け止める。
さらには、それをさらに外に向けて発信することもある。ここには双方向の対話が成りたち、そこに他のヒトは介入する余地がない。

ここで現代の私たちの一番身近なメディアへの触れ方を改めて考えてみたい。
ここではスマートフォンについて論じる。

思い出してほしい。あなたが友達とランチをしているとき、友達と遊びに行っているとき、あなたと一緒にいる人が一人でもスマートフォンをいじりはじめ、メッセージを送ったりしているようであったら、よっぽど特別な用事でない限り、イラッとしないだろうか。私はここであなたと対峙していて、そこに私たちだけの空間があった。

だが、あなたとの空間を作っていたその人は、他の世界とつながっている。そこにもうあなたとその人の空間はない。あなたはその場にいるが、その人はどこかへいってしまった。せっかく時間を割いて対峙していたのに。

何とか悲しいことではないか?

スマートフォンという身近なメディアを届けてくれる機器が誕生する前は、誰かといるときはその人にだけ集中することができた。より密度の濃い、マインドフルな時間。

しかし今、大学で講義中の教室を見渡しても、ひさしぶりに会った友達とお茶をしても、やはり彼らの身体は、興味関心は、あなただけでない誰か、どこか、いつかに向かってしまっていないだろうか。
大学の教授も最近は「授業は100分なんですから、せめてスマートフォンをしまって、この時間に集中しませんか。私たちは今この時に一緒にいるんですから。」だとか、「スマホをいじられると私の授業をする気をそがれる。」だとか私たちに注意するありさまである。

今誰かと生身の人間同士で対峙しているのに、メディアを介した他の空間とつながることを選ぶというのは、自分がより価値を置いているものを選ぶことになる。あなたは、自分と対峙している人が価値のない、つまらない人だと 見なしてしまっているのか?

だとしたら大変失礼だし、せめてあなたのために時間を割いてその場にいて、空間を作ろうとしてくれる人と同じ空間にいることを選ぶのが自然である。少なくとも、そこから必ず価値は見いだせる。

現代の社会問題となっているスマートフォンの普及による除外、孤独は個人のつながりたいと思う世界への考え方を変えるだけで防げる問題だと思う。

私たちの外の世界をつながっていたいという感覚と、今を大事にするという考え方はしっかり切り離したほうがいい。

メディアは私たちの生活を便利にさせた半面、過去に持っていた当たり前のものを失わせた。

今を便利に生きるこばかりに夢中になって、目の前の一瞬を大切にすることを忘れてはいけない。